バブルの恩恵
1980年代後半は日本中がバブルに浮かれていました。でもそのお陰で駆け出しのミュージシャンにも仕事がたくさんあったのです。当時青年実業家なんて言われる人達がたくさんいましたよね。そんな人達がミュージシャンの生演奏でダンスパーティーを開催したり、中にはプロのミュージシャンやアレンジャーに仕事を依頼して自分のCDを作るなんて人も!レコード会社や制作会社もたっぷり予算と時間を使い音源を作っていた時代です。TV業界も華やかで毎日が学園祭のようでした。駆け出しのミュージシャンにも無制限のタクシーチケットが渡されたり、スタジオセットの中に冷蔵庫があって、冷えているビールやら何やらを自由に飲んで良かったりと、今のコンプライアンスから考えると破茶滅茶なんですが今の日本にはないパワーがありました。バブルの混沌というか恩恵の中で徐々にレコーディングにも呼ばれるようになり、様々な経験を積みました。人間関係も仕事の幅も徐々に広がっていきましたが、とある求人誌が私の仕事を記事にするという珍しい事もありました。


これは春畑ソロのレコーディングだと思います。DIMENSIONでもお世話になったエンジニアの相原さんと。

この大きな携帯電話はさすがに記事用のアレなんですが…。それでも毎日のように車であちらこちらの現場を走り回っていたのは事実です。ハードな毎日でした。
この時期、一番長期にわたる仕事といえばTUBEのツアーサポート&レコーディングでした。メンバーと年齢が近い事もあり、すぐに打ち解けて音を出すことが出来ました。全国を細かく回るツアーも初めて経験しました。音楽的な事、機材の事、コンサートがどのようにして成り立っているのかなど、たくさんの学びがありましたが、どの街に行っても終演後は豪華な打ち上げ、その後の飲酒など、まさにバブルな毎日でした。しばらくするとレコーディングにも参加するようになり、冬はレコーディング、5月くらいから夏の終わりまでがツアーというスケジュールが定着して行きました。お陰で経済的にも安定しました。
ジャズピアニストになる!と高校の三者面談で宣言したのに、仕事を始めてからここまでほぼJ-POPの歌モノの仕事しかしていません。もちろん音楽に優劣などありませんし、学ぶべきことはジャンルを超えて山のようにあります。今のミュージシャン生活に不満があるわけではなかったのですが、ジャズという世界にもっと深く入り込み様々な経験をしたい、音楽の大海原をもっと自由に泳ぎ回りたいという気持ちから逃げていないか、本当に自分のやりたいことは何か?と自問するようになって行きました。時を同じくして先輩ミュージシャンからライブハウスでのセッションなどにも呼ばれるようになり、誰かの音楽のお手伝いをするよりも自分達が良いと思うもの、自分の音楽、自分の音を聴いて欲しいという気持ちが日毎に高まっていったのです。DIMENSIONのデビューもそんな気分の時期、1992年の6月でした。不思議なもので、何かが終わり次のフェーズに移る時は様々なことが起こります。ただの偶然か神様の悪戯かわかりませんが、それは必然なのでしょう。毎日が楽しくキラキラと輝いていた夏休みのようなバブルの日々が終わろうとしています。

コメント
コメント一覧 (2件)
文は人なり。そして文は音なり。
小野塚さんの文章は、まるでその演奏のような流麗さと情熱を感じさせるものでした。
現状にもがき続けている自分にとって、大きな励みになるコラムでした。ありがとうございました。40周年ライブ、楽しみにしています。
とても興味深いお話でした。
私もエレクトーンを習っていました。音楽を仕事に出来たらと夢見ていましたが、全く方法も分からず、結婚を理由に辞めて、子育てで自分が好きな音楽やコンサートにもなかなか行かれなかったですが、子育ても落ち着いてきて、2年ほど前、30年くらい前に一度行った渡辺貞夫さんのコンサートに再び行き、とても素晴らしく、これからは可能な限りコンサートに行こうと思ってます。小野塚さんのアレンジや、みなさんの一体感や貞夫さんに寄り添う演奏がとても好きです。