column 018 40年間の音楽生活を振り返る

バブルの崩壊 – 20代後半の決断

DIMENSIONでデビューしたと言っても音楽業界やミュージシャンの間では、まだ吹けば飛ぶような小さな存在です。それでも与えられたチャンスを無駄にしたくない、ミュージシャンとしての爪痕を残したい、もっと成長したい。寝る間を惜しんでがむしゃらに取り組みました。その中でツアーサポートという仕事から気持ちが離れていったのも事実です。中途半端な気持ちで漫然と仕事を続けるのは良いことではありません。年収の大半を占めるTUBEの仕事を辞める決断をしました。サポートメンバーなんて辞めようと思えば簡単に辞められると思っていたのですが実際はそうではありませんでした。紆余曲折ありましたが最終的にはメンバーとそれぞれ1時間以上電話で話しました。その中でお互いの想いをしっかり話したからなのか、最後はすっきりとした気分で辞めることが出来ました。この決断には多くの学びがありました。「言いにくいこと、面倒なことから逃げない。お金や他人に惑わされずに自分の信じる道を進む。」当たり前の事なのでしょうが、様々な人間関係や仕事のつながりから簡単ではありません。それでも人は決断をしなければなりません。その決断の積み重ねが未来の自分を形作って行くのです。

笑ってしまうくらい仕事収入も減りましたが、その当時参加していた「SOURCE」というバンドの青木さん、石川さん、梶原さんが貞夫さんのバンドに入っていた事から、次のピアニストに私を推薦してくれたのです。ジャズピアニストになる!と高校の三者面談で宣言はしましたが、今の自分はジャズに関して間違いなく初心者マークです。そんな自分に日本一のビッグネーム、貞夫さんとの演奏がつとまるのか?…でも不思議と迷いはありませんでした。「面倒な事から逃げない。自分の信じる道を進む。」TUBEの一件で少し大人になったミュージシャンは遂に未体験ゾーンに踏み込むことになります。1994年、27歳になっていました。

最初の仕事は札幌のホテルのイベントだったと思います。リハーサルから緊張していました。本番ももちろん緊張していて細かいことは覚えていません。ただ貞夫さんに小手先の技術で格好つけることはすぐに見透かされてしまうだろうと本能的に思いました。未熟で剥き出しでも構わない、気持ちを込めて音を出すしかないと思い、全力でステージをつとめました。ライブが終わり、打ち上げの席で貞夫さんに「来年一緒にブラジルへ行こう」と言われたのだけは鮮明に覚えています。この一回で終わりじゃない、まだ先へ進める。そう思った瞬間でした。

不思議なもので、何かを手放すと違うものが手に入ったりするものです。この20代後半の決断は後の人生に大きな影響を与えることになります。

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • 文は人なり。そして文は音なり。
    小野塚さんの文章は、まるでその演奏のような流麗さと情熱を感じさせるものでした。
    現状にもがき続けている自分にとって、大きな励みになるコラムでした。ありがとうございました。40周年ライブ、楽しみにしています。

  • とても興味深いお話でした。
    私もエレクトーンを習っていました。音楽を仕事に出来たらと夢見ていましたが、全く方法も分からず、結婚を理由に辞めて、子育てで自分が好きな音楽やコンサートにもなかなか行かれなかったですが、子育ても落ち着いてきて、2年ほど前、30年くらい前に一度行った渡辺貞夫さんのコンサートに再び行き、とても素晴らしく、これからは可能な限りコンサートに行こうと思ってます。小野塚さんのアレンジや、みなさんの一体感や貞夫さんに寄り添う演奏がとても好きです。

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